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【学習 #3-15】五行(5)

2024/02/16

「五行説」の形成 (2)

「五行説」についてここまで述べてきたことをざっくりと纏めると、

  1. 「五行生数説」・・・「水火金木土」という宇宙生成の順序で記載されている(『書経』「洪範」)
  2. 「五行相生説」・・・「木火金水土」という、「木が火を生み、火が金にいろいろな形を与え、金が水を生み、水が土を生む」という「相手を活かす」順序で記載されている(『管子』)
  3. 「五行相勝(相剋)説」・・・「水は火に勝ち、木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に勝ち」という「相手を負かす、凌ぐ」という順序で記載されている(『春秋左氏伝』)。ただし『左氏伝』には生数説も相生説も記されている

以上のようなフレームワークの変遷を経てきたということですね。しかも、1 ⇒ 2 ⇒ 3という進展ではなく、2と3とはいまも並列並存しています。

3.の『左氏伝』は、B.C.722年(春秋時代の魯国隠公の元年)~B.C.481年(哀公14年)までの歴史をつづったものです。が、ここには1~3の五行説の記載が著されています。
B.C.546年(襄公27年)には、「民用五材」としての「水火金木土」(この場合の順序は不問)が示されていて、さらにはB.C.531年(昭公11年)にも「宇宙には五材があって・・・」と書かれています。五行生数説のことでしょう。

そこから、相生説へ発展するのを示すかのように、B.C.513年(昭公29年)には、
「昔は五行の官庁があって、・・・木の官庁長官は句芒(こうぼう)と呼び、火の官庁長官を祝融(しゅくゆう)と呼び、金の長官を蓐収(じょくしゅう)と呼び、水の長官を玄冥(げんめい)と呼び、土の長官を后土(こうど)という」
という下りがあります。これは「木火金水土」の排列を示した五行相生説です。

さらにこの『左氏伝』には時代が下ると、五行が単なる「材」から「原理」へと昇華する過程もいくつか伺えるというのです。
B.C.511年の記述には「金性に属す呉国が楚の都の郢(えい)を攻めるが、〈火勝金〉[火は金に勝つ]のであるから、呉は楚に必ず敗北するだろう」というような占いの結果も書かれています。

これは「民用五材」が「五行相勝(相剋)説」として宇宙・国家・人事を貫く「原理」へと昇華していることを伺わせます。

5つの要素

では、どうしてこの「水火金木土」という5つの資材(マテリアル)が、このように原理として採用されているのでしょうか。

それについては、①元素としての認識、②生活必需品、というふたつの理由から採用されたのではと言われていますが、小島祐馬は「古代中国人が、身近なものをもって宇宙論のような高遠な思想を持ったとは甚だ疑問。なぜなら中国人は古来より極めて実際的な実利主義に終始し、高遠な思想なぞには本来興味がない」とずいぶんと辛口な評価をして①ではないことを主張しています。
むしろ、そう至ったのは外来思想の影響があるのではないかと疑問を投げかけています。中国人が「土」と「金」とに同じ価値を認めて同列に扱うだろうかと言うのですね。

しかし、五行での「金」は岩石、砂利(砂)といった意味もありますから、小島の指摘はそのまま受け止めなくともいいのではないか。

「行」

さらに小島は、「五行説」の根幹は「行」の一字に尽きると断言しています。
「行」の字義は「行く」「めぐる」であり、「五行」とは「五者のあいだで循環が行われる」という意味です。

「循環を無視して五行説は成立しない」(p.184)と小島は言います。

であれば五者には循環関係があることが本意なのであり、とすれば「民用五材」といった生活必需品の意味合いから思想が創出されたのではなく、鄒衍の「五徳終始」こそが五行の最古説としなければならないと強調するのです。五者の採用はその循環を考えるために卑近なマテリアルを採用したにすぎないのだと。

このあたりは身近な材それぞれの持つ活動形態を考慮に入れて「五行説」が発展していったという上住とはまったく違う意見です。わたしは、どちらかと言うと小島説を支持しますが、現在の初学者としての拙い判断なのかもしれません。

判断の理由のひとつは、相生説はさておき相勝説が何故に創出されたのか。ふとそのことに考えが至ります。
「相手に勝つ(相手を負かす)」ことをなぜ考えるのか。
そう考えるのは、戦争であり外交であり、広く言えば政治が存在するからではないでしょうか。身近なマテリアルから敷衍して高邁な思想に至るというのは、なかなか想像できないかなという気がしています。

五行思想の完成一歩手前

前述したように『呂氏春秋』の十二紀および『礼記』月令が、「五行思想(五行配当ともいう)」として一応の完成した最初のかたちとされています。

「十二紀」では、木火と金水とのあいだに「土」を置くことで、春夏秋冬の四時の真ん中に「中央土」を加えて五時として、五行と時間(季節)との整合性をとったわけです。また人びとの日常生活にある「五帝五神五味五色」も、「木火金水土」の五要素の概念を基軸にして包括統一して、思想としての「五行思想」の完成を遂げた、と上住は区切りをつけるように記述しています。

小島は「『十二紀』および『月令』は、五行配当の起源として最も信をおき得る」と言っています。

と同時に、「ただその五行の配当は極めて幼稚であり、これを自然界・人事界の現象に適用してこれによって宇宙を説明するごとき組織ではなく、大体のプランは祭祀に関係する事柄をこの五の区分法に従って配列したに過ぎない」と言って、「十二紀」が五行思想としてはプリミティブ以上でも以下でもないと述べています。

では、その完成形はどこにあるのでしょうか。

  • この記事を書いた人

nikolaschka

穂座来 萬大(ほざき・かずひろ)。2023年より算命学を勉強中。慶應義塾大学(通信制)文学部Ⅰ類在籍(法学部乙類卒)。 ガンプラ/サイゼリヤ/ブロンプトン/天声人語/ポメラ。明治100年静岡市生まれ。

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