五徳終始説(つづき)
「五行相剋説」を基調として、支那王朝の入れ替わりを説いたとされる「五徳終始説(ごとくしゅうしせつ)」。小島は、五行思想が確かにあらわたと信頼できる最初のテキストとして、鄒衍(すうえん)の五行説を支持しています。
「五徳終始説」とは、一代の帝王は必ず五徳のいずれかを備えて王座につくという思想です。
「五徳」は「火水土木金」の5つの徳のことであり、すべての王朝はこの「五徳」の順序に従って交代すべきものであるというのです。王朝の交代すなわち易姓革命が、自然の法則に則っていて当然のことであるという見方をしています。「五徳」の出来(しゅったい)が「火水土木金」であることから、これを「五行説」というわけです。
この「五徳終始説」は、とある王朝が非常な力を保持していて統治が行き届いている時期には起こるのではなく、その時の権力者(王者)が次第に力を失い衰えゆく時にあって、他にこれに代替できる有力者が出現する時、あるいはその出現を希望する時に発現するといわれています。
陰陽の交合が生み出す自然現象への対応の原理であった五行説は、今や、歴代王朝の栄枯盛衰という歴史的・社会的な現象を、「五行」の相互関係によって説明する、権力移転の大法となったのです。(上住節子『算命占法 上』、p.55)
相生説と相勝(相剋)説
しかし、この鄒衍の説は、秦王朝が「五行」の最後の「水徳(すいとく)」を得て未来永劫に続いていくという、秦王朝一代の正当性を強調するだけのものにすぎなかったと指摘もされています。
漢の時代、高官のひとり、張蒼(ちょうそう)は、漢が水徳をもって周の火徳(かとく)に勝利したと主張し、また賈誼(かぎ)は漢が土徳(どとく)をもって周の水徳に勝利したと考えました。
この考え方は、「火水土木金」の順番で5つの要素が交代するという「五行相勝(相剋)説」に基づいています。すなわち、「水は火に勝ち、木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に勝ち」という考え方ですね。漢という国がどうして周に勝利できたのかというと、漢は水徳を持つ国であるがゆえに火徳を持つ周に勝つことができたのだという理屈づけです。
その一方で、前漢末期のB.C.50年頃、劉向(りゅうきょう)・劉歆(りゅうきん)父子は、「木火金水土」の順番で王朝が交代するのだと主張しました。劉向は、周は木徳の国家であり、秦は閏位(じゅんい。正統ではない王権のこと)と見做して、漢を火徳の国とします。
この考え方は、『呂氏春秋』の「十二紀」の中で唱えられていた「五行相生説」に基づくものです。「木生火、火生金、金生水・・・」という「相生説」。いわば彼ら父子は「相勝(相剋)説」に対して従来の原則をぶつけたのでしょう。この「相生説」と「相勝(相剋)説」は、今日も大きな二つの体系を保っていますね。
また、この二系統の考え方は政治思想の変遷の結果だと小島は言います。
「相勝説」は、王朝の交代は武力によるものだという事実に基づいて理窟づけられています。
対する「相生説」は、「禅譲」、すなわち前王者が後王者にその地位を譲るという形式を理論の根拠としている。小島は、支那では王莽(おうもう)以降今日まで事実は武力であっても、形式上は禅譲によって王朝の交代がなされていると指摘しています。