このサイトは基本的にはオリエンタルを標榜していますが、まあ〈国民的行事〉と定着したクリスマスについて、降誕祭を彩る小説を読んでいく。まずはO・ヘンリーの名作から。
クリスマスといえば、いつも思い出す短編は、カポーティでもディケンズでもなく、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」(1906年作)。わたしが覚えている「一行」は、
人生は、”むせび泣き”と”すすり泣き”と”微笑み”から成り立っていて、なかでも”すすり泣き”の時間がいちばん長い。
主人公は、デラとジムの夫婦。
もうすぐクリスマスだというのに、ふたりの手元にはわずかな貯えしかない。それなのに彼らはそれぞれ相手のプレゼントを賄う算段をする。
妻のデラは、夫のジムが代々受け継いで大切にしている金の懐中時計を吊るすためのプラチナの鎖を買うために、自慢の髪を切って売ってしまう。
いっぽう、ジムはデラが欲しがっていた鼈甲(べっこう)の櫛を買うために、自慢の懐中時計を質に入れてしまった。
さて、このすれ違いの結末は?
最後に一言、現代の賢い人たちに申し上げたいことがある。贈り物をする人たちのなかで、このふたりこそが最も賢い人たちだった、ということだ。
(中略)
いかなる時空にあっても、いかなる境遇にあっても、このふたりほど賢明な人たちはいない。彼らこそ賢者である。
小説の結構としては、
「ぼくたちのクリスマスの贈り物は片づけて、しばらくはそのまましまっとこう。今のぼくたちには上等すぎる。あの時計は売っちゃったんだ。きみの櫛を買うのに金が必要だったから。さて、そろそろ肉を焼いてもらおうかな」
というジムのセリフで終わってもよかったのではと個人的には感じる。
そこからさきの、作者の〈解説〉はいささか蛇足に感じられるかもしれない。ふたりが陥ったシチュエーションは、ジムのこの言葉ですでに救われているのだから。
とはいえ、クリスマスという、家族や恋人たちがお互いを向き合う大切な時間に、作者の一言は行き違いから生じたビターな結末をふっとなごませてくれているのも確か。
〈現実の厳しさ〉を突きつけるだけが、小説の役目ではない。
