ふと思い立って、内村鑑三『後世への最大遺物』(岩波文庫)を読んでいる。
内村鑑三本は、しばらく前に『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』(光文社古典新訳文庫)を読んだくらいで(この本は、従来『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』というタイトルで広く知られている。岩波文庫にも入っている)、しかも中身はどんなだったのか大して覚えていない。
とは言いつつ、フランクで読みやすかったことは記憶にある。キリスト教徒による著述ということで、堅苦しい内容だろうとイメージを勝手に懐いていたが杞憂に終わった。
さて、この『後世への~』の主題は、
「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か、事業か、思想か」
というシンプルな問いを内村自らが立てて、それについて語っている。
まず驚いたのは、内村が「金(カネ)を遺しなさい」と最初から積極的に訴えていることである。彼はキリスト教徒だから、てっきり〈清貧〉を矜持に懐いてそれを信条として訴えているかと思いきや、こう言い切るのである。
金を遺すものを賤しめるような人はやはり金のことに賤しいのであります。吝嗇(けち)な人であります。
そして、
そうしてあるときは富というものは、どこでも得られるように、空中にでも懸かっているもののように思いますけれども、その富を一つに集めることができるものは、これは非常に神の助けを受くる人でなければできないことであります。ちょうど秋になって雁は天を飛んでいる。それは誰が獲ってもよい。しかしその雁を獲ることは難しいことであります。人間の手に雁が十羽でなり二十羽なり集まってあるならば、それに価値があります。すなわち、手の内の一羽の雀は木の上におるところの二羽の雀より貴いというのは、このことであります。(pp. 21-22)
そこで金というものは宇宙に浮いているというようなものでございますけれど、しかしながらそれを一つにまとめて、そうして後世の人がこれを用いることができるように溜めて往かんとする欲望が諸君の地二あるのならば、私は私の満腔の同情をもって、イエス・キリストの御名(みな)によって、父なる神の御名によって、精霊の御名によって、教会のために、国のために、世界のために、「君よ、金を溜めたまえ」というて、このことをその人に勧めるものです。富というものを一つにまとめるということは一大事業です。(p.22)
こうして、内村は「金後世への遺物の第一番目」と滔滔と主張している。これには目から鱗だったが、単にわたしが「キリスト教徒=清貧」という先入観に囚われていただけである。
そういえば、「キリスト教とカネ」ということで思い出したことがある。
以前パウロ・コエーリョ『アルケミスト 夢を旅した少年』(角川文庫)を読んだとき、長い旅路の果てに彼が掴んだのはカネであった。
その本を薦めてくれた友人に「この結末は日本人には馴染まないんじゃないかな」と言ったら、クリスチャンの彼女は「キリスト教では苦労した者への報酬はカネなのよ」と返してきた。
ストーリィとして、最後に財産がもらえるというのはなるほど宗教のエピソードとしては解るが、エンタメとしては鼻白む。しかしまあ、そういうものかとその時には思った。
昨年、経済倫理学の授業で「宗教と経済(富)」というテーマを説明してもらったが、たしかキリスト教と経済(この場合には金儲け)は原則としては合わない、つまりはキリスト教としては経済はあまり馴染まないが、教義に反しない限りは経済行為を認める、ということを聴いた覚えがある(ただし、これはルターの宗教改革以後は異なってくる)。
だとしたら、内村の〈(公共善に結びつく)金儲け礼賛〉も解らないではない。彼は単なる金儲け(個人の金庫にのみおさまるカネ)は眼中にはないが、国家や社会に還元される金儲け(それをわたしが〈公共善〉と単純に言ってしまっていいのかどうかは疑問)は、大いに歓迎すると言っているのである。
さて算命学とすると、算命学の思想は老荘思想に立っていることもあり、その老荘思想は道教に繋がることもあって金儲けには寛容である。道教は現世利益を貴ぶ。横浜中華街の関帝廟は関羽を祀っているが、関羽は道教では商売の神様として崇められている。
『後世への最大遺物』、まだ読み終わっていないのだが、この結末はどうなるのだろうか。
