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『図解 諸子百家の思想』、「諸子」の虚像

2024/02/19

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『図解 諸子百家の思想』、「諸子」の虚像

2024/02/19

今週(2024/2/19~22)までは、とにかく繁忙期(忙殺期)なので、ロクにブログ更新ができません。日付こそ2/19(月)となっていますが、書いているのは2/25です。

会社の行き帰り、さいきん出た支那思想の文庫をチラ見していました(半分くらいは居眠りしてました)。大学に在籍していた時には(まぁいまも在籍してるんですけど)、テキストを片手にひたすら読み込んでいた記憶がありますが、いったいその時の情熱は何処へ行ったのでしょうか。

この本自体は2007年に出たもので、今回の文庫化にあたっては少し加筆されているよう。楊朱(ようしゅ)[道家(どうか)]、恵施(けいし)・公孫龍[名家(めいか)]、鄒衍(すうえん)[陰陽家(いんようか)]が追記されています(残念ながら、鬼谷子[縦横家(しょうおうか)]は入らなかった)。わたしは元本(単行本)を知らなかったこともあり、丁度いい機会なので手にしてみました。

わたしが読みたかったのは「鄒衍」の項で、わたしもこのブログで少し前に「五行説」、とくに「五徳終始説」を説いた儒家として鄒衍に触れています。しかし鄒衍が陰陽家に分類されるとは知らなかった。不勉強ですね。

【学習 #3-14】五行(4) | 學のほそ道 ~ 燕居青麓庵 (hozakik.com)

「諸子百家(しょしひゃっか)」については、本書の第1章で詳しく述べているので興味がある方は一読されるとよいと思います。
「諸子」とは「学者先生」といったような意味合いで、「百家」は「多くの学派(思想)」といったところです。なので、「諸子が様々な思想を説いたという理解」(平勢)というのが、一般的には妥当なのでしょう。
もちろん「百家」だからといって、100も学派があったわけではない・・・と思いきや、『漢書(かんじょ)』(後漢時代に前漢時代をまとめた史書)の芸文志(げいもんし)には、

  • 漢代までの諸子・・・「十家者流」
  • それをさらに分類して、合計「諸子百八十九家」

とあるとか。そんなにあったのかよ。「白髪三千丈」の国だからって舐めちゃいけませんね。

少し注意したい記述がある。

『図解』のほうでは、「戦国中期に諸子百家が出そろう」とあります。

これらの諸子により、世界のあるべき姿や国家の望ましい統治方法、理想的人間像などについて、多彩なアイデアが提出された。彼らは門人を引き連れて各地を遊説し、行く先々の君主に対し、自己の思想を受け入れるよう弁論活動を繰り広げた。

当然、異なる学派があちこちで鉢合わせする結果となり、至る所で論争が展開された。論戦に敗れると、鄒衍との論争に敗北した公孫龍が、客として厚遇してくれていた平原君(へいげんくん)から退けられたように君主の保護を失ってしまい、経済的に困窮することにもなるため、学派間の論争は熾烈を極めた。そうした論戦の過程で、異質な思想同士が刺戟し合って、相手からの新しい要素を取り入れながら、それぞれの学派はさらに思索を深めていく。

浅野裕一『図解 諸子百家の思想』、p.35

こう書かれると、諸子百家の思想というのはお互いに切磋琢磨して進化・深化したように思えるのですが、こうした理解について平勢は、

大きくは宋明理学(そうみんりがく)と称される学問体系の下でなされたものである。科挙官僚たる天下の士大夫(したいふ)が、みずからの先駆として論じた諸子理解である。それが、挑戦李朝や我が国江戸時代の諸子理解に大きな影響を及ぼした。

平勢隆郎『都市国家から中華へ』、p.353

一見、なにを言っているか解らないかもしれないが、もう少し先に行く。

後漢の王充(おうじゅう)によれば、孟子は中人(ちゅうにん)以上を述べ、荀子は中人以下を述べたという(『論衡』本性篇)。後漢時代の認識が『漢書』の古今人表に示されているが、古今の人を上上聖人・上中仁人・上下智人・中上・中中・中下・下上・下中・下下愚人の九等に分かつ。

これらを三つにまとめなおせば、上人・中人・下人となる。

この中人以上について性善を唱えたのが孟子、中人以下について性悪をとなえたのが荀子だというのが王充の説明であった。

これに沿って述べれば、道家は上人のみを語り、法家は中人以下を管理しようとした(徹底すれば上人までいく)、ということになる。眼目とする階層が異なれば、諸子の言説は、互いを補完しつつ共存することができる。

王充のの上人・中人・下人に関するまとめは。、従来の理解が的を射たものではないことを教えてくれる。孟子の性善説と荀子の性悪説が同じ人の性の理解として対立していたのではない。孟子は中人以上を論じ、荀子は中人以下を論じていて、どの階層に焦点を当てるかが異なっている。同じ国家に両者の議論が混在することも可能であり、いわば「棲み分け」の議論をしていたのである。

前掲書、同ページ、適宜改行は引用者による

日本人にはなじみの薄い、「階級」による思想の棲み分けでしょうか。小島祐馬が「儒家思想の中心点は、道徳的階級制度ともいうべきものである」と言っていたのは啓発に値するものだと感じます。

  • この記事を書いた人

nikolaschka

穂座来 萬大(ほざき・かずひろ)。2023年より算命学を勉強中。慶應義塾大学(通信制)文学部Ⅰ類在籍(法学部乙類卒)。 ガンプラ/サイゼリヤ/ブロンプトン/天声人語/ポメラ。明治100年静岡市生まれ。

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