■2025.2.21(金)
高千穂神社のあとは高千穂峡へ。
3連休ということもあって、たくさんの方が訪れていた。地理学でいうところの「柱状節理(ちゅうじょうせつり)」の連なりと、名瀑「真名井の滝」を間近で眺めることができて、改めて自然の摂理たるものの不思議さ(それを感じ取ることができるのが人間なのだが)に、あたりの風景へしばらくの間没入していた。




続いては天岩戸神社へ。「天の岩戸」を眺められたのだが、滞在時間少なめで写真も少しだけ。天岩戸神社の本殿と横にある神楽殿。立派なところほどわりとシンプルで慎み深い佇まい。


ここまでで午後の時間もだいぶ差し込んできたので、熊本・天草へと急ぐ。
んが、その途中で、わたしはとんでもない神社に遭遇したのであった。なんてそんなことを言うと大仰だが、ミセス白龍が「やっぱり立ち寄ろう」といったん通り過ぎた鳥居に向かって、クルマをバックし駐車場へ入った。
それが幣立神宮だった。

鳥居をくぐった瞬間に、総毛立つような、しかしまったく嫌な感じではなく、むしろ自分の身体のなかから外に向かって沸き立ってくる気持ちの高まりを覚えた。この感覚を何と言えばいいか。
鳥居から本殿まではかなり急な階段があるが、昇っていくことにまったく躊躇いを感じることもなく、自分でも驚くくらいにスイスイと石段を踏んでいった。息もほとんど上がらない。
本殿近くの御手水は凍っていた。
この日はそこそこ暖かかったように思えたが、やはり朝晩は冷えるのだろう。
本殿はすぐそこである。
可愛い先客がお父さんらしき人と一緒にいて、何やら熱心に拝んでいた。熱心にと書いたが、子どもなりの誠実さだと見ていい。そこには神社が醸しだす〈拒絶感〉はなく、幼い子どもの行いを許す優しささえ感じられたくらいである。
しかし、この静謐さと森厳さをどう表現したらいいんだろう。まだまだ初心者である。
傍らには伊勢神宮の内宮外宮の分社(?)があり、その手前には天神木の「首っ玉」が備えてある。いずれも写真に収めることができなかった(ほんと、もっとたくさん撮るべきだったな)。また本殿だけでなくまたその奥もあるということだが、それは「またゆっくり来なさい」というメッセージなのではと勝手に思ったりする。
ミセス白龍には、階段を降りながら「高千穂神社でも天岩戸神社でも感じなかったような昂揚感を、このお社で感じています」と伝えた。
「それはきっと、呼ばれたということですね」と彼女は笑って答えてくれた。
鳥居の外に出て、お社のほうを名残惜しく振り返ると、改めてそう思った。(つづく)