年末が迫ってきて、忘年会やら各種挨拶やらでなかなか忙しくさせてもらっています(夜間スクーリングもまだまだ残っているし)。おかげでこのブログも更新が遅れています。
さて、因果、離婚の話、とタイトルに打つとちょっとドキッとしますが、この回ではそれほどシリアスな内容ではありません。まあ〈薄い話〉なので、ご勘弁を。
昨日(2025/12/19)は、國分功一郎『中動態の世界』(新潮文庫)の読書会の今年最後の例会でした。いつものように大学の日吉キャンパス内で。全9章中第7章を読みましたが、ますます何を言っているのか解らない内容。これまでの言語の解説から、ハイデガーやドゥルーズが登場してきてすっかり哲学モードになってしまい、参加者はほぼお手上げ。
いろいろな議論の中でも「キリスト教は過去の出来事と現在の自分とを切り離す原理があるみたい」という発言があって、これはハイデガーが「意志」に対する批判をするくだりを読んでいたときの発言ですが、ふと「日本人は〈因果応報〉が好きですよね」とわたしから返しました。
その話の流れで、算命学における離婚の話をしちゃったりしました(参加者のみなさんはわたしが占技の勉強をしていることをご存知なので安心して話することができます)。
算命学では、「家系の存続」を第一義にしています。生まれてきた家系を後代へと続くようにするのが優先順位として高いということです。
という観点からすると、離婚というのは算命学としては認めがたいということになります。子どもは父親から精神面の大切さを、母親からは現実的な生き方を学ぶとされていますが、そのどちらかが子どもの人生の中で欠けることになります。それは家系の存続(子どもが生きているだけでなく知恵と愛情とを受け継ぐという意味においても)を、危うくさせる〈行為〉になります。
また、夫婦となった者たちは、「三三九度」の儀式をもって、自分と配偶者、そして神様と〈契約(誓い)〉を交わしたことになります。離婚はこの〈三者契約〉を反故にすることになるのですね。
ですので、この〈報い〉を受けることになります。家系に〈離婚の因縁〉ができてしまい、この因縁は後3代まで続くといわれています。具体的には、例えば離婚した人の子どもは、その子も結婚しても離婚をする、その割合が非常に高くなるということです。
そんな話を参加者の方と話したときに、保険業をされている方から、保険の契約をするときには離婚歴は必ず聞きます、といったことを聞いて、それは保険金の受け取りは誰なのかなどの揉めごと回避のためかなとも思いますが(「カネは他人」なので)、かように離婚というのは子どもたちにも周囲にも波紋を起こすものなのですね。
(ほんとうかどうかは解りませんが)キリスト教のように、人間は過去からの訣別が単純にはできない、と古代支那の人たちは考えたのでしょう。
