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【学習 #3-13】五行(3)

2024/02/13

五行相生説(の原形)

前回、「五行生数説」という五行思想の原初のかたちが『書経』(あるいは『尚書』)に書かれていると言いましたが、『書経』の成立(全体が一書として成立した時)は早くても秦の穆公の在位開始年である、B.C.659年以降とされています。

ちなみに、その『書経』よりも前に著されたとされる『管子(かんし)』というテキストにすでに「五行」の原初的な考え方が述べられてはいます。ここでの「五行」は「木火金水土」という「五行相生(そうせい)説」の原初のかたちの順序で並べられています。

しかし、『管子』のテキスト成立は詳かではなく(長い年月をかけたといわれています)、かつ管仲(春秋時代における斉の政治家)が書いたとされていますがそうではなく、記述には漢代に書かれた内容も相当あるので、五行説の成立の順序としては怪しまないといけません。

五行説のすべての原形

続いて登場するのは、左丘明(さきゅうめい)の『春秋左氏伝』。この人は孔子の弟子とされていますが、実体はどうも怪しい。テキスト成立は戦国中期(B.C.350年頃)とされています。このテキストには、従来の「五行生数説」に加えて、

「木火金水土」という「五行相生説」の排列、
加えて「水火金木土」という「五行相勝(そうしょう)説(または五行相剋[そうこく]説)」の排列、

の〈原初形体〉が暗示されています。五行説に関する思考体系がすべてあらわされているわけです。

この「相生説」「相勝(相剋)説」についてはもう少し後で触れます。

以上のような流れの先に、五行説の形成のひとつのメルクマールとなったのが、呂不韋(りょふい)『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』にある「十二紀」です。
「十二紀」は周王朝末期(B.C.240年頃)の戦乱の中で呂不韋が、次に来たるべき統一国家(この言葉は支那の歴史、殊に古代史においては注意して用いなければならないのですが)に向けて、「五行相生説」に基づく政治の大法を体系的に示したものとされています。

そして、それをさらに精緻化したのが鄒衍といわれています。

五徳終始説

鄒衍(B.C.305年頃~B.C.240年頃、ということは呂不韋と同時代の人なのかな)は斉の国の人で、孟子よりも後の人。
「五徳終始説(ごとくしゅうしせつ)」は、要するに「五行相剋説」を基調として王朝の入れ替わり(循環)を説いたものなのです。(つづく)

  • この記事を書いた人

nikolaschka

穂座来 萬大(ほざき・かずひろ)。2023年より算命学を勉強中。慶應義塾大学(通信制)文学部Ⅰ類在籍(法学部乙類卒)。 ガンプラ/サイゼリヤ/ブロンプトン/天声人語/ポメラ。明治100年静岡市生まれ。

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