これまで数回にわたって老荘思想を我流で整理してきましたが、ここからは「陰陽」「五行」「干支」といったテーマに入っていきます。
老荘思想の整理には、小島祐馬『中国思想史』や上住節子『算命占法』にだいぶ助けてもらっていますが、小島の老荘思想の理解は、老子は「無為自然」すなわち非文化主義(自然に帰れ)、虚無主義的(非人格的、無意志的)であり、荘子は個人主義的(消極的無政府主義的)という言葉に集約できるのではないでしょうか。
魏晋時代に至り、道家思想の流行を見たのは、荘子の思想が当時の有閑不平の徒の好みに投じたのであり、同じ道家思想の流行にしても、漢初に老子の思想が政治的意味において尊重せられたのとは大いに趣を異にする。
小島の理解に進むと、老荘思想がどうして算命学の〈根本原理〉になるのかが今ひとつピンと来ないのですが、上住の言に従って老子の「道(みち)」に着目してみると、なんとなく前途が開けてくるようです。
小島も「老子の学説の根本は道の一字に尽きる」(p.123)と喝破していますが、上住はこう述べています。
西洋の学問では、感覚や知覚を通して得た経験や学習によって、人間の意識が発達するとされ、ともすれば、悟性による分析的・評論的な思考作用が重視されがちです。しかし東洋の思想、なかんずく老荘思想では、感覚や知覚はむしろ根源の元気を損ないかねない、生命の二次的、末梢的な作用として、これに頼り過ぎることを警戒しました。
それよりも、知覚や感覚を生み出す根元の元気そのものにこそ眼を向け、その元気と一体化し、合一しようとしてきたのです。
一切のものを生み出すこの根元の元気こそ、老子が「道」と名付け、「無」といい、あるいは「虚」や「一」などと呼ぶものです。
ここで言う「根元の元気」とは何でしょうか。
それは「命(めい)」なのだと上住は言います。すなわち「持って生まれた素質と能力」のこと。その「根元の元気」に従って無為自然にありのままに生きることこそ「道」に則していると言えるというのですが、おそらく上住の言う「無為自然」と小島の言うそれとは視点が異なるのだろうと理解します。
さて、「道」について、老子自身はこのように言っています。
物有り混成し、天地に先立ちて生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して而(しか)も改めず、周行して而も殆(あやう)からず。以て天下の母たるべし。吾其の名を知らず、之(これ)に字(あざな)して道と曰(い)う。 (『道徳経』第25章)
また、こうも言います。
天下の万物は有より生じ、有は無より生ず。 (前掲書、第40章)
以前書きましたが、老子が見た宇宙の根本は、これは形式的には「道」といいますが、実質的には「無」です。この「道」であり「無」である存在は、万物に超越すると同時にまた万物に周行(あちこち巡っていくこと)していて、宇宙にある森羅万象は一つとしてこの「道」であり「無」であるものの作用しないものはないのだと。すなわち「天下の母」なのです。
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