「五行」、すなわち「木火金水土」は、最終的には「天人合一(てんじんごういつ)」思想の一翼を担うかたちとなり、易とともに儒家の哲学思想の根底を形成する有力な要素となったのである。
というのは、小島祐馬『中国思想史』における「五行」の解説の締めくくりです(p.188)。ここまで至るまでには、少し説明に時間がかかります。
〈二〉、〈四〉の認識
さて、この「五行」というのも算命学の根本原理のひとつ。
そもそも「五」という文字は、白川静『字通』によれば、X文字のように斜めに交錯する木をもって作られた器の蓋のかたちです。「五」の上下2本の横線は天地をあらわし、そのあいだで陰陽が相交わるという意味を備えたもの。
数字で言えば、古代支那の人びとは天界の運行、季節の運行、日常生活などに〈二〉という数字をまず見出しました。
一日は「昼」「夜」で構成され、太陽は「東」からのぼり「西」へと沈んでいきます。
季節は暖かくなり動植物の活動が盛んになりはじめる「春」と気温が低下して活動量が少なくなる「秋」。
発芽する植物は「青」であり、枯れて死ねば「白」となる。
生活には「火」と「水」が必需品である。いわば〈対(つい)〉の認識を持ったわけですね。
その経験から、「方向(=空間)」と「季節(=時間)」と「色」とは、相互に関係があるのだと理解されてきました。
さらに時代が進むと(上住は新石器時代末期[B.C.3000~B.C.2000頃]と述べている)、人びとは方向と季節(時節)とをより複雑に認識していきます。
太陽は「南」で天高く位置し、「北」には行かない。つまり、方向には「東西南北」の4方向がある。
季節には、太陽の動きと連動して「春夏秋冬」の4つの季節〈四季〉がある。
色には「春=青」「秋=白」だけではなく、「夏=赤」と「冬=黒」とがあり、生活必需品には水と火以外にも、「木」と「金」の〈四材〉を認識するようになります。
数字の〈四〉が意識の上に出てきたということですね。
西周時代(B.C.1045年 ~B.C.771)には、祭祀の一環としてこんな風景が展開されていたというのです。
天子が宮殿の東側に青色の門を建て、南側に赤門、西と北にはそれぞれ白と黒の門を造って、春が来ると城の東門を出て、郊外で、東の方位を司る帝王を祀った後、春の気を迎えて農事の安泰をお祈りし、夏には南の赤門を出て同様の儀式を行った
上住節子『算命占法 上』
〈五〉の認識
では、「五」番目の空間・時間である「中央(=商)」の認識はいつ、どのように発生したのか。というと、上住はこんな説明をします。
さらに春秋時代(B.C.770~B.C.403年)になると、人びとは、方向が東西南北の四方に向かって、内から外に展開しているだけではなく、東西南北それぞれから内に向かっている方向のあることに気づきます。そして、この方向を「中方」または「商」と名づけました。
[中略]
この「中方」という方位は、先に陰・陽の働きを木の営みを例に述べた際の、陽(顕現・分化・発展)に対する陰(守静・統一・含蓄)の作用をあらわす方位なのです。
小島によれば、『呂氏春秋』(着手は戦国末だが完成はB.C.239)十二紀、および『礼記』月令(1年12月の年中行事と天文や暦について論じたもの。内容は『呂氏春秋』とほぼ同じ)が、五行思想(五行配当ともいう)として完成した最初のかたちだと言っています。
ここにおいて、春夏秋冬に「中央」(=商)を加えた「五」が列されて、それぞれへの意味が配当されています。
季節 | 春 | 夏 | 中央(商) | 秋 | 冬 |
性 | 木 | 火 | 土 | 金 | 水 |
十干 | 甲乙 | 丙丁 | 戊己 | 庚辛 | 壬癸 |
五帝 | 大皞 (たいこう) | 炎帝 | 黄帝 | 少皞 (しょうこう) | 顓頊 (せんぎょく) |
五神 | 句芒 (こうぼう) | 祝融 | 后土 | 蓐収 (じょくしゅう) | 玄冥 (げんめい) |
数 | 八 | 七 | 五 | 九 | 六 |
五味 | 酸 | 苦 | 甘 | 辛 | 鹹 |
五音 | 角 | 徴(ち) | 宮 | 商 | 羽 |
五色 | 青 | 赤 | 黄 | 白 | 黒 |
五虫 | 鱗 | 羽 | 倮(う) | 毛 | 介 |
五臓 | 脾 | 肺 | 心 | 肝 | 腎 |
五祀 | 戸 | 竈 | 中霤 (ちゅうりゅう) | 門 | 行 |
この「五行配当」は祭祀に関係しています。十干は祭りの日を定めるための標準であり、五臓は祭りに供える肉の部位であり(人体のそれではない)、五帝五神五味五色それぞれ祭祀に関連するものです。
しかし、祭祀のためだけなら「中央」を設置しなくともよかった。
上住の言う「宇宙の創造的活動」、
小島の言う「人事界・自然界の現象」、
の説明のためには、〈四季=季節の4分類〉は都合が悪かったのですが、少なくとも秦漢時代には「五行配当」はそこまで説明・使用するほどの思想ではなく、せいぜいが祭祀プランの区分法程度の用法しかなかったようで、「中央」は設置したものの、その内容は粗いものだったようです。
それが時代が進むにつれて、「五行配当」は季節を春夏秋冬に分けることはそのままにして、その移り変わりの時期を18日とし、それを〈土〉に割り当てて「土用(どよう)」とした。つまりは精緻化が進んだわけですね。
このフレームワークは、前漢武帝(在位B.C.141~B.C.87)の時の董仲舒(とうちゅうじょ)『春秋繁露(しゅんじゅうばんろ)』に明らかに書かれています。