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【学習 #3-12】五行(2)

2024/02/11

前回書いた、〈五行配当〉の表。

【学習 #3-11】五行(1) | 學のほそ道 ~ 燕居青麓庵 (hozakik.com)

商(=中央)を含んだ季節に十干(じっかん)が割り当てられていますが、こんな興味深い話を見つけました。

10個の太陽

「陰陽」の説明でも触れましたが、殷の時代の占いは「起こるか/起こらぬか」の二者択一を基礎としています。それが時代が下って、戦国時代には抽象概念となり、「陰(--)」と「陽(-)」という言葉ができました。

一方で、殷代には、10個の太陽神話、すなわち太陽は10個存在し10個ずつ出てくるという神話を基礎とした、10の記号がありました。これが十干の先祖だと言われているということです(平勢隆郎『中国の歴史2 都市国家から中華へ』)。

戦国時代には、その十干(の先祖)を2つずつに分けて陰陽を割り当てて、5つの〈陰陽セット〉とし、それらに5つの元素を割り当てて森羅万象を説明するようになりました。5つの元素すなわち「木火金水土」です。ただ、平勢の説明は5つの元素がどこから来たのか、どうして陰陽と結びついたのかまでには至っていません。

「五行説」の形成

五行生数説

「五行」の名称が、支那文献に現れるのは、『書経』(古くは『尚書』という)にある「甘誓(かんせい)」と「洪範(こうはん)」の二篇に見えるのが定説とされています。
「甘誓」は夏王朝の史官が記録していて、ゆえにそこに「五行」が記されていることは、支那での五行思想の起源がずいぶん古いものという証左といわれています。しかし、小島祐馬は、夏殷周三代の暦法からおかしいと疑義を唱えています。その詳細はまたいずれ。
一方の「洪範」は、王者が天下を治める大法といった意味です。この洪範はもともと夏王朝の禹王(うおう)が天から授かったもので、それを歴代相伝していき、周王朝が殷王朝を滅ぼしたときに、殷の政治家箕子(きし)が周の武王に伝えたとされています。

これに「九疇(きゅうちゅう)」すなわち九つの大箇条を挙げて、

一(はじめ)に五行。一(いつ)に曰く水(すい)。二に曰く火(か)。三に曰く木(もく)。四に曰く金(きん)。五に曰く土(ど)。

小島はこの九疇の五行記載については、いちばん最後に筆を加えたものだろうと指摘していて(そしてそれはもっともだと思えるのですが)、それはまあ置いておき、人びとの日常生活に最も不可欠な資材、すなわち「民用五材(みんようござい)」を、その生成の順序に従って並べたものだといわれています。しかし、この記載はとてもプリミティブなもので、ここには方角、時節(四季)、色、「木火金水土」同士の相互関係はまったく見当たりません。

単なる数の配列に過ぎないので、「五行生数説」と呼ばれます。

しかしここで注目すべきき、上住の次の一節でしょう。

なお、「洪範」の「一に曰く水。・・・」は、後に『易経』「繋辞伝上」の「天一地二、天三地四、天五地六・・・」の「数」と結びついて、易の「天一水を生じ、地二火を生じ、天三木を生じ、地四金を生じ、天五土を生ず」という形で、易の「天地数説」に基づいて排列され、取り入れられていきます。

易はまたこの時期、従来の相い比較するものの関係において、刻々に発生する現象を予知しようとする考え方と、剛=陽が尊く立派で多大なものであり、柔=陰が低く弱々しく小さく少ないものだとする従来の考え方は、周易を通じて変えられることはありませんでした。

上住節子『算命占法 上』(pp. 59-60)

算命学と易との考え方の違いの一端がサラリと述べられています。

  • この記事を書いた人

nikolaschka

穂座来 萬大(ほざき・かずひろ)。2023年より算命学を勉強中。慶應義塾大学(通信制)文学部Ⅰ類在籍(法学部乙類卒)。 ガンプラ/サイゼリヤ/ブロンプトン/天声人語/ポメラ。明治100年静岡市生まれ。

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