新潮文庫版にしてわずか5ページ弱の小文、しかし、まあ難しい。一読してスラスラと読解される方は尊敬する。
最初の古文がまず関門だ。
「或云う(あるひといわく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみを打ちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死無常(しょうじむじょう)の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり。云々」
ある人がこう言った。比叡神社で、偽って巫女のふりをした若い女房が、夜が更けて、人が寝静まった後に、ぽんぽんと鼓を打ち、心から澄んだ声で「どうにもこうにもどうとでもいいのです、ねえねえ」と謡を謡った。その意味をあとで人に問われて、このように答えた。「生死は無常という事を思いますと、この世の事は、どうにもこうにもどうとでもいいのです。なので後世を助けてくださいと、神様にお願い申し上げていたのですよ」
こんなところだろうか。しかし、小林秀雄の文章は、わたしにとってはやっぱり不明瞭というか晦渋でしかない。前段は近代的理性とか知性の束縛から離れる、みたいなことを書いていると考えられるのだが、後段は解ったような解らないような。ということは解っていないのだろう。読んでるこちらのアタマが悪いんだということを感じさせようとする悪意があるんじゃないのかしら(笑)。


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