今日(8月20日)は、22年度慶應通信の夏期スクーリングⅡ期目最終日。最終講義と試験がある。この一週間の締めくくり、参加されている方はあと少しです。頑張ってくださいね。
さて、小林秀雄と岡潔との対談「人間の建設」、のっけからタイトルをめぐって自分のなかで難渋してしまったが、じつはこの対談自体の出だしはそんなに悪くない。「学問をたのしむ心」という章タイトルが、慶應通信的にはとっつきやすい。
対談は「大文字の山焼き」(大文字焼)が行われた日ということなので、1965年のお盆明けの時だったろう。
小林がそう話を振ると、岡は、
私はああいう人為的なものには、あまり興味はありません。小林さん、山はやっぱり焼かないほうがいいですよ。
とあっさりと退ける。さすが、大数学者は言うことが違うなあ。岡はもあとで〈情緒〉という単語を頻出させてくるのだが、彼の言う〈情緒〉は、日本の〈伝統文化〉(と見られる)の行事とは結びつかないものなのか。
岡の即答を受けた小林は、「ごもっともです」と、これまたアッサリと受け流す。そして、対談会場までの車中での会話の続きとして、小林は、
学問が好きになるということは、たいへんなことだと思うけれども。
と、学問の話へと話題を〈戻す〉。このあたりからの小林と岡とのやりとりは、わたしのような社会人学生にはうれしい。
岡 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。
小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにもあります。選手には、勝つことが面白いだろうが、それもまず、野球自体が面白くなっているからでしょう。その意味で、野球選手はたしかにみな学問をしているのですよ。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。
岡 そうですか。
小林 むずかしければむずかしいほど面白いということは、だれにでもわかることですよ。そういう教育をしなければならないとぼくは思う。
わたしもそう思う。(つづく)