「人間の建設」は小林秀雄と数学者・岡潔との対談(1965年10月)で、タイトルの「人間の建設」というのはズバリ名フレーズは見当たらなく、おそらく次の一節からとられている。
何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやったほうが幾分利益があればできるものです。もし建設が一つでもできるというなら認めてやってもいいのですが、建設は何もしていない。しているのは破壊と機械的操作だけなんです。だから、いま考えられているような理論物理学があると仮定させるものは破壊であって建設じゃない。破壊だったら、相似的な学説があればできるのです。建設はやって見せてもらわなければ、論より証拠とは言えないのです。だいたい自然科学でいまできることと言ったら、一口に言えば破壊だけでして、科学が人間の福祉に役立つとよく言いますが、その最も大きな例は、進化論は別にして、たとえば人類の生命を最近から守るというようなことでしょう。しかしそれも実際には破壊によってその病原菌を死滅させるのであって、建設しているのではない。(新潮文庫、p.55-56)
長く引きすぎたが、これをしゃべっているのは岡である。「破壊だけの自然科学」という章のなかで、
たとえばアインシュタインが物理学者としてある発見をする。発見はしたが順序立てて表現できないものを数学者が表現してやるということが数学にはあるのですか。
という、小林の質問にたいして滔滔とする岡の一人語りにあるのだけれど、そこに至るまでの流れをわたしには要約できない。なんせ、この一節のある岡の語りは延延と(文庫本のそれで)6ページもある。ここで言う〈建設〉というのは、自分のみならず他者も利する、という意味合いなんだろうか(例えば、細菌も殺さず人類も死なず、という〈共生〉の意味合いも含まれているとか)。あるいは〈無から有を生み出す〉というようなことも。
そして6ページの後に来る、小林の応答はアッサリとしたものだ。
数学者はいまの物理学をそういう態度で考えているのですか。
小林はきっと岡の話を理解していないんじゃないかと勘ぐるのだが、座談として話の受け流し方は見事だと思う。岡がアインシュタインや物理学を一通りくさした後で、小林は次のように話題を変える。
しかしアインシュタインの伝記などを読んでみると、あの人も、ずいぶんつらい人だったように思いますね。
章立ては「アインシュタインという人間」に移っているのである。(つづく)