『人間の建設』の続き。
学問の話をさっくりと終えて、次に、小林は絵画の話題を岡に振る。岡は絵画を鑑賞するのが好きらしい。
小林 ピカソという人は、仏教のほうでいう無明を描く達人であるということをお書きになっていましたね。わたしもだいぶ前ですが、同じようなことを考えたことがある。どこかの展覧会にいきまして、小さなピカソの絵をみました。それは男と女がテーブルをはさんで話をしている。ピカソの絵ですから、男か女かわからない。変にゴツゴツしたもので、とてもそうは見えないけれども、男と女が話しているなと直感的に思った。そうすると、いかにもいやな会話を二人がしているんですな。これは現代の男女がじつに不愉快な会話をしているところをかいたのだなと、ぼくは勝手に思っちゃった。
岡 それは正しい直感だと思います。
小林がピカソの絵について書いたのは『近代絵画』(新潮文庫)のなかでであろうか。岡の言及は『春風夏雨』(角川ソフィア文庫)の「無明」というエッセイでである。話題にされている絵が何なのが知識の無いわたしには解らないが、「長椅子」という作品名のものだろうか。
岡はピカソを厳しく評価している。
岡 男女関係を沢山かいております。それも男女の醜い面しかかいていません。あれが無明というものです。人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。(後略)
という具合でしゃべっていき、「無明」のなかでもその筆致で評価している。しかし、この対談の読み手にはそもそもこの〈無明〉という言葉がよく解らない。対談中にも説明されないし脚注にも載ってこない。
しかし岡のエッセイ「無明」には、〈無明〉の意味がこう説明されている。
無明というのは仏教の言葉で、私の信奉している山崎弁栄(べんねい)上人の解釈によると、生きようとする盲目的意志のことである。盲目的であるにせよ、ともかく生きようとする意志のことだから、それほど恐ろしいものではないだろうし、また、少なくとも六道(りくどう)のうちの最高の序列にある人・天の二道における無明は程度が知れていると考えていた。しかし、このピカソの絵を見て、生きんとする盲目的意志がどんなに恐ろしいものかがよくわかった。
(岡潔「無明」より、角川ソフィア文庫『春風夏雨』所収)
ここでは山崎弁栄については踏み込まない。「弁栄上人に影響を受けた人物」として岡潔が挙げられているがそれだけをメモしておくにとどめる。
岡は一気呵成にピカソやピカソの絵がいかに〈無明〉に毒されそこからしか彼の絵が生じてきていないのかを延延と語る。曰く、ピカソの絵は〈無明〉を描いており、〈美〉を描いていない。力強いかもしれないが、美は位の高さであって、働きの強さを言うのではない。ゆえに、ピカソは地蔵菩薩になるには欠けたものがあるというのだが、途中で自らの筆致の極端さに気がついたのかどうか、「これでも随分ピカソを高く評価しているつもりなのである」と言っているが、いまさら感が漂う。
無明すなわち「生きんとする盲目的意志」というのがそんなに恐ろしいものなんだろうか。
ピカソのやっている仕事は、真でもない、善でもない、美でもないものを取り出して、はっきりと見せることだが、このような役割の人に、どういう椅子を文化の中で与えたらよいのか、私にはわからない。(前掲書)
と言ってこのエッセイの中締めをする。
それにしても引っかかるのは〈無明〉という言葉で、呉智英『つぎはぎ仏教入門』(ちくま文庫)によれば、「十二縁起(十二因縁)」のひとつだという。すなわち「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」が「縁起」であり、これらがそれぞれ原因となりまた結果となって人間に〈苦〉を生じさせるというのである。〈無明〉の意味は、「無知、明るくないこと、迷妄の中にいること」と呉はわれわれに解りやすいようにかみ砕いて表現してくれている。ここで、そもそも縁起とは何かとか言いはじめるとこれまたキリがないのでここまでに留めるが、岡の言う〈無明〉とは意味合いがどうも違っているように思える。
ピカソや彼の絵をどう評価しようが、それは岡の価値観なので別段どうということもないが、彼の言葉遣いを、しかし小林秀雄は理解していたのか気にはなる。
(2022.8.22追記)〈無明〉の意味がわからんと言ってしまったが、文庫p.14にその意味らしいことは書いてあった。「生きんとする盲目的意志」というのはこのことかしら。しかし「意志」と「本能」は違うよなあ。
人は自己中心に知情意し、扞格し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。